さて、山本太郎。

敗戦から74度目の夏。 

すべての戦争被害者のみなさまに哀悼の意を表すとともに、 
ご遺族のみなさまにお見舞い申し上げます。 

間違った判断の連続で、自国のみならず、 
アジア諸国にも甚大なる被害を与えた過去。 
この反省を未来永劫続けることが、 
私たちそして政治の責任と考えます。 

厚生労働省の発表による戦没者の概数は約240万人、 
各都道府県発表の空襲死者の合計は、56万2708人と言われています。 

未だ果たされていない空襲被害者への賠償、 
原爆被害者の全面救済を求めるとともに、 
皆さまと力を合わせ、真の世界平和実現の先頭に日本がたつ政治を実現して参ります。

れいわ新選組 代表 山本太郎

こんなバカなことを平気で言う。アタマおかしいですね。

>アジア諸国にも甚大なる被害を与えた過去。

なんですか?これ。

そして

>この反省を未来永劫続けることが、
>私たちそして政治の責任と考えます。

未来永劫と言い出す朝鮮脳。

正に「朝鮮族の代弁者」ですね。

で、、

井上和彦

韓国は「反日」で燃え盛っているが、世界は親日国で溢れている理由

かつての激戦地でメイクテラーと呼ばれたミャンマー中部のメイッティーラにも日本兵の墓があった。この墓は、寺院の尼僧が生活する区画内にあり、いまも彼女たちが守り続けてくれている。墓石の両端に建つ慰霊碑には、「狼兵団 第168連隊通信隊」と、もう一つには「独立自動車第102大隊」の文字が刻まれていた。

ピンク色の僧衣を着た尼僧は「ここには(日本兵の)お墓もあり毎晩お経を唱えています」と話してくれた。これを聞いた私は、彼女らに心からの感謝の意を伝えた。

無情にも祖国で忘れられた日本軍兵士たちが異国のミャンマーで慰霊されていることに複雑な思いがこみ上げると共に、こうして毎日手を合わせてくれている尼僧らの祈りが、ただただありがたかった。

さらにこの近くには、歩兵第16連隊長の揮毫(きごう)による大きな鎮魂碑と、先の独立自動車第102大隊戦没者のための仏塔が建立されており、こちらは男性の僧侶たちが鎮魂してくれていた。


アウン・サンは、現在のミャンマーの国家顧問で民主化運動指導者として知られるアウン・サン・スー・チー女史の実父である。

大東亜戦争が勃発する前、アウン・サンは、日本軍の支援を受けて30人の同志と共に海南島へ逃れ、そこで彼らは鈴木大佐の南機関による厳しい軍事訓練を受けていた。

そして開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日、アウン・サンらは、タイのバンコクで「ビルマ独立義勇軍」を設立。司令官に鈴木大佐が就き、彼はビルマ伝説の救世主“ボ・モージョ”を名乗った。そして参謀にアウン・サンが就いた。

1943年(昭和18年)8月1日、日本軍の支援を受けてバー・モウを首相とする「ビルマ国」がイギリスから独立。ビルマ独立義勇軍は、ビルマ防衛軍を経て「ビルマ国民軍」へと改編され、同時にアウン・サンは国防相兼ビルマ国民軍司令官となった。


戦後、バー・モウは、自著『ビルマの夜明け』で、長きにわたったイギリスの植民地支配から独立できた当時のビルマの様子をこう回顧している。

《それは言葉では言い現せないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸をふくらませて、いたる所で歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群集がパゴダを訪れて灯明をあげ、花を捧げた。僧たちは町中で振舞を受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で万歳を叫んで、日本に対する深い感謝を現す決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージが東条首相と日本政府に送られた》(ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』展転社)

ビルマ国民軍は、日本軍と共に進撃し、各地でイギリス軍と戦闘を繰り広げたのだった。


いずれにせよ日本軍が、イギリス植民地からの独立を希求するビルマ人を助け、ビルマ人の軍隊をつくって彼らと共にイギリス軍と戦ったことはいまも高く評価されている。


面白いことに当時のビルマ国民軍の軍服は日本陸軍のそれとそっくりであり、このことからも日緬両国の関係性が読み取れる。 


そして展示の中には驚くべきものがあった。それは日本軍人と見まごうばかりのビルマ国民軍の軍服を着たアウン・サン将軍の肖像画だった。この肖像画のアウン・サン将軍の胸元には、1943年(昭和18年)に天皇陛下から授与された旭日章が描かれおり、加えてそのコーナーには勲三等の勲章と日本刀が恭(うやうや)しく展示されていた。


さらにミャンマーにはアウン・サン将軍の日本軍将官そっくりの銅像もあった。

アウンサン将軍銅像

場所はメイクテラー近郊だったと記憶しているが、日本陸軍ばりの軍服を着用し日本刀を地面について立つ丸刈り頭のアウン・サン将軍像を目の当りにした私は思わず頭を垂れて敬礼した次第である。


実はアウン・サン将軍は1940年(昭和15年)に日本に亡命し、鈴木敬司少将とビルマの独立について鈴木少将の郷里である静岡県浜松で策を練っていたのだ。

こうしたことから、浜松の大草山の山頂に「ビルマゆかりの碑」という顕彰碑が建立され、2014年(平成26年)にミャンマーの国軍司令官が来日した際、日本の自衛隊と共にここで慰霊式典が行われた。以来、自衛隊とミャンマー軍の将官交流プログラムで来日するミャンマー軍の将官はこの地を訪れ献花しているという。

かつて鈴木敬司少将をはじめ日本軍がミャンマーの独立に貢献したことが、いまでもミャンマーの人々に感謝されているのだ。


全文はコチラhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/66377






当時アジアは日本以外は西洋列強の植民地、刈り取り放題の草刈り場だった。

それが当時の普通であった、、

日本もいつ植民地になってもおかしくない状態だったと言えます。

ベトナムはフランスの植民地

ビルマはイギリスの植民地

東南アジアはオランダやアメリカの植民地だった、、

中国には各国が割譲という形で植民地化していた。

ですから中国大陸では日本軍はアメリカ義勇隊戦闘機(アメリカ人パイロット)と戦っていましたね。


戦後アジアは独立を勝ち取りましたが、、

西洋列強がアジアに賠償したのではなく、、

白人は植民地にした費用をアジアに請求し高額を分捕ったのです。

解放しやるからカネ払え、です。

それが植民地の普通でした。


アジアの植民地
http://lingvistika.blog.jp/archives/1057576934.html


武田邦彦 (中部大学)


今から100年ほど前、アジア人のほとんどが白人の植民地となり、苦しんでいた。その苦しみたるや並大抵ではなかった。たとえば、

1)アメリカの奴隷となった黒人は、アフリカで家族と平和に暮らしているとき、突如として銃を持ったアメリカの奴隷商人に拉致される。泣き叫ぶ家族と引き離され、奴隷船に乗せられる。嵐が来ると、20人ずつ鉄の鎖につないでそのまま海に捨てて溺死させる。
2)インドでは優れた若者がでると、イギリス軍がその人の両手首を切り取って活躍できないようにした。
3)インドシナ(今のベトナム、ラオス、カンボジア)に支配しているフランスから見てよからぬ若者がいると、微罪でしょっ引き、そのまま独房に入れて死ぬのを待った。

これが白人による有色人種の支配の実態だった。だから、有色人種は何とかして悲惨な状態から立ち上がろうとしていた。ところが有色人種の国で、特別な国が4つあった。エチオピア、シャム(今のタイ)、中国、そして日本だった。


●エチオピアはひどい風土病があって、白人が入るとたちまち死んだ。だから白人はエチオピアには入らなかった。
●シャム(タイ)はイギリスとフランスの植民地の間にあり、白人同士の争いを回避するために緩衝地帯として白人が残した(タイの王家の貢献もある)。
●中国は領土が大きかったので、白人が領土を要求すると、割譲しながら一応、国家の形だけを残していた。
●日本は軍備を整え、白人と対等の力をつけ、日露戦争に勝って有色人種で唯一、完全な形での独立を果たした。

http://takedanet.com/archives/1013803747.html



民間人の街に無差別にナパームで空爆してジェノサイド(皆殺し作戦)したアメリカに対して、、

山本太郎は賠償請求するべきですね。

一体どちらに向けて「賠償だぁぁ」と吠えているんですかね???