白隠の他にも、臨済宗の高僧たちには強烈な悟り体験を獲得している者が多い。たとえば、妙心寺派管長を務めた山本玄峰(げんぽう)は次のように語る。
背中の大骨の両脇がビリビリふるえて、脇の下からは熱い汗がたらたらと流れ、3日も4日も所知を忘じておった。
天龍寺派管長などを歴任した関精拙(せいせつ)の悟り体験も、負けてはいない。
わしのようなものでも、初関(しょかん)をブチ抜いたときには、嬉しくて嬉しくて、曹源池の周囲を一晩中踊り回つたものだ。
関精拙の弟子で、妙心寺派管長を務めた山田無文(むもん)は、さらに激しい悟り体験記を残している。
わたくしは飛び上がるほど驚いた。(…)無は爆発して、妙有の世界が現前したではないか。(…)天(あま)の岩戸はたちまち開かれ、天地創造の神わざが無限に展開されたのである。すべては新しい。すべては美しい。すべては真実である。すべては光っておる。そしてすべては自己である。わたくしは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。手の舞い足の踏むところを知らずとは、まさにこのことであったろう。
極めつけは、円覚寺派管長を務めた朝比奈宗源(そうげん)の悟り体験である。坐禅の最中に、ひょうし木のカチンという音を聞いた瞬間――
そのカチンが全く突然でその衝撃でまるで儂の体が爆発して飛んでしまったように思え、がらりーとしてあと大衆と一しょに堂内を歩いていても、まるで虚空を歩いているよう、見るもの聞くもの何もかもきらきら輝いた感じ、そこに生も死もあったものではない。ハハァ、これが見性かと、一時に涙がふき出した。
「体が爆発して飛んでしまった」とは、ただ事ではない。しかも、「何もかもきらきら輝いた」ように感じ、「涙がふき出した」という。ここまで来ると、凡人にはついていけない感じだ。
このように、本物の「悟り」とは、「さとり世代」の大人しいイメージとはかけ離れたものなのである。
https://news.livedoor.com/article/detail/17469552/
だからどーしたんだと、、
悟ったところで世界は変わらない。
単に自称悟りから見た世界が違って見えただけ、、
結局また難しい講釈を弟子に垂れて座禅させて、、
悟りをハクにして、坊主続けただけだろう。
悟るために修行するとか、、
ただのマスターベーションです。
座禅中に悟ったんなら、、エコノミークラス症候群でしょうね。
血栓飛んで幻覚見て、、
大悟したぁぁと叫んで動いて血栓が上手く外れただけでしょう。
※禅宗坊主の座禅中の「座死」の統計を見てみたいものです。
取り敢えずこの辺で。