1月16日に国内で初めてコロナの陽性者が確認されると大阪は24日にいち早く「大阪府新型コロナウイルス対策本部」を設置し第1回の会議を実施した。

当時のことを藤井部長は、「最初のコロナの印象は、よくわからないウイルスが入ってきたというもの。日本に入ってきてから知事自身、強い危機感や意識を持っていて、それは健康医療部と一致していた。最初に対策本部会議を開きたいとおっしゃったのは知事。このころから知事とは一貫して情報を共有し、意見交換し、対策を議論していた」と語る。

その後、29日に初めて府内でコロナ陽性者が確認されると、ひとりに対する行動歴を公開するなど、強い危機感を持った対策を講じてきた。 2月に入ってから大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号での集団感染が確認され、さらに危機感は強くなる。府では中国・武漢市や海外からの帰国者など、感染疑いのある人の外来受診の呼びかけやPCR検査体制と医療体制の強化に取り組み始めた。 このころの、検査受け入れ態勢も1日40件から2月後半には90件に強化しており、府内では2月27日に2人目、28日には1日で2人確認され、これ以降ぽつぽつと陽性者が現れ始める。 この2人目の陽性者が、2月15日にライブハウスで発生したクラスター(集団感染)による感染であったことが判明すると、府は国のクラスター班と協力して新たな感染者がいないか追跡。陽性者を隔離、治療するという「しらみつぶし」ともいえる地道な対策をとった。 この頃から、コロナが感染から発症まで約2週間の潜伏期間があり、その間もウイルス感染が広がることが分かってくる。 3月2日からは学校園の休校を決定。中旬になると、健康医療部では感染経路不明の新規陽性者が、大阪府だけでなく隣接する兵庫県からも確認されていることに対し、「爆発的な感染拡大につながることを危険視した」という藤井部長。 すぐに吉村知事と情報共有し、兵庫と大阪の往来自粛の必要性を議論。3月19日には、翌20日からの3連休中、兵庫県と大阪府の不要不急の行き来を自粛するよう呼び掛けた。これが、府が府民に対して初めて外出自粛要請を出したときだ。

1/24に「大阪府新型コロナウイルス対策本部」を設置し第1回の会議を実施したのは、、

正直凄いなと思っています。

そのニュースを知らなかったと思います。


4月はじめをフェーズ1の後半からフェーズ2の移行期と判断した健康医療部。医療崩壊を防ぐためにPCR検査体制の強化、患者の症状に合わせた医療提供など、急ピッチで対応し、空床がある病院に対して交渉し病床の確保などもおこなった。 なかでも無症状・軽症者を隔離するためにホテルを宿泊療養施設とする施策は、4月3日に事業者を募集し、7日には締め切り。翌8日にはダイヤモンド・プリンセス号で経験を持つ自衛隊と打ち合わせをおこない、14日から運用開始という異例の速さとなった。 医療崩壊という最悪な状況を予想し、宣言後はもっと陽性者が出ると試算していた健康医療部。4月9日の92人という数字は最高値であるが、「試算よりは低い数値だった」という。 緊急事態宣言後2週間たった22日、新規陽性者が31人になり、大幅に減少を見せ始め、陽性者に対する医療体制が追い付くことになる。そして、そのまま陽性者は急増することなく、医療崩壊を防ぐことに成功した。

大村が入院していない患者がいると言ったのは、、

ホテル隔離していたからで、、

ホテル隔離導入は早かったんですよ。

内容を深く精査しないで、表の報道資料だけを見て、勝手に推測して「医療崩壊だぁぁ」と他の都府県の悪口を言う。


大村愛知県知事って、どないもならんバカです。

まぁ自分のバカさから目を逸らさせる、、

不都合な報道は検閲して訂正させるという恐ろしい情報統制をしています。

頭の中は、中国共産党か韓国みたいな脳になっていますね。


藤井部長は「走り抜けた」1月から5月までの約半年間についてこう語る。「大阪が初めて緑に点灯できたとき、大阪のみなさんが本当に協力してくださったからだと思った。大変かといわれれば大変だった。でも、コロナに関わっている人はみんな大変だったと思う。健康医療部は一部業務を縮小した他部局から10人で25班、合計250人の応援が来てくれ、保健所や府内、府外、いろいろな方が全力で対応してくれた。病院医療も、宿泊療養に協力してくださったホテルも、PCR検査に協力してくださった機関も、府からの大変なお願いに対応してくれた。たくさんのみなさんが協力してくれたから第一波を乗り越えることができたと思う」


正直、安心して過ごしていました。

天王寺公園への散歩はコロナ以前より多かったです(笑)

20200507のテンシバ




取り敢えずこの辺で。
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