日本に足りないのは「めっちゃ楽しそうにサッカーをする下手なおっさん」 欧州で目撃した、勝利(とビール)を真剣に目指す大人たち僕は選手として4カ国、7クラブでプレーしましたが、個人的に「下手だな」と思う選手はたくさんいました。そして、そういった「(僕からしたら)下手な選手」に僕は何度も言い負かされ、対等以上に要求され、時にはヘイコラしながらプレーしました。僕は、日本に一番足りていないのは、「めっちゃ楽しそうにサッカーをする、死ぬほどサッカーが下手なおっさん」だと思っています。
週末に、仕事終わりに、競技レベルの高低とは全く関係のない次元で、おっさんがユラユラと集まって、しかし真剣に、サッカーをする。11対11である必要は全くなくて(どうせ最後は走れなくなって2対3くらいになるのだから)4対4でも、6対6でも構わない。
僕は大学卒業まで日本でサッカーをしましたが、各年代のチームメイトで、週末だけでもサッカーを続けている人間は数えるほどしかいません。皆、短くない期間打ち込んできたにも関わらず、です。
それはサッカーがプレーするに足らない、魅力のないスポーツだからではなく、熱中していた時にあった序列的な空気構造がサッカーを「つまらなく」感じさせてしまったからではないでしょうか。「サッカーと自分の蜜月関係」の間に、上手くいかない、嘲笑される、誰かにジャッジされる、という横槍がザクザクと入り込んで、サッカーを「誰かより劣っていた記憶」として、あるいは「自らを序列に当てはめた記憶」として刻んでしまう。好きで始めたサッカーが、ヒエラルキーの象徴に化けてしまう。
欧州で見てきたのは、(日本的な物差しで見れば)目も当てられないようなレベルのおっさんたちが、真剣に勝利を(そしてその先のビールを)目指して、週末に、仕事終わりに、ガチャガチャとサッカーをする姿です。
トレーニングウェアなのかすら分からないTシャツを汗だくにして、脂で武装した横腹を短パンの上に乗せ、得体の知れないメーカーの靴を履いて、ゴール七個分外れた軌道のシュートに対して、1秒遅れで大味なスライディングタックルを飛ばしている。しかし、彼らは真剣であり、恥とは無縁、自嘲が入り込む隙間はありません。
そして何より重要なのは、その姿を育成年代の子どもたちが見ることです。サッカークラブは、地域は、そうしたおっさんたちにグラウンドを提供し、それを目の当たりにすることで、子どもたちはサッカーが上位総取りの序列的なスポーツではないことを理解します。サッカー、自分、自分より上手い/下手な人たち、それを上からジャッジする誰か、という序列構造から、サッカーと自分の蜜月関係を取り戻す方法を知ります。
1秒遅れのスライディングは、子どもたちに「この先もサッカーを紡いでいく選択肢」を与えているし、その脇腹は「サッカーは生涯、愛するに足るスポーツだ」と教えているのです。
事実、僕が指導するクラブでも「ここじゃあ試合に出場できないなぁ」と察して、早々にそちらの『おっさん』チームに混ざってサッカーを続ける青年が、毎年一定数います。そして、彼らは辞めた、続けた、生き残った、落ちこぼれた、を経てもなお、それをひとりの人間としての優劣と混同せず、同じようにスパイクと練習着を持ってグラウンドに向かい、それぞれのサッカーを続けていきます。
「もう何年もボール蹴ってねぇなぁ」というおっさん、もとい、もう十分に大人の方々。
本来サッカーをすることには誰の許可証も必要ありません。自分で自分に許可を出すだけです。しかし恥の文化においては、自分に許可を出すハードルがいちばん高い。一度サッカーが始まったら、戦うべきは「恥」ではなく目の前の相手であり、追いかけるべきは「昔の自分」ではなく目の前を転がるボールです。悔しくて呻いたり、嬉しくて思わず叫んでしまうような瞬間を、サッカーは(スポーツは)極めて自然な形で提供してくれます。
「偉そうに、お前に何がわかるんだ」と感じた方々、僕が海外で学んだのは、自分のことは棚に上げ、棚ごと鍵をかけて窓の外に放る作法です。
年の瀬になりました。ボール、蹴りませんか?
まぁ好きなスポーツなら理屈抜きに取り組めばよい。
スポーツバーで見ているだけでなく、、
身体を実際に動かす。
ヘタはヘタなりに楽しんで、、
ヘタはヘタなりにテクニックを追求してみる。
もっと楽しみたいと思ったら、、
スクワットとか取り入れて、、
ちょっと身体も作ってみる。
ちょっと走ってみる。
楽しんで繰り返して楽しんで少しステップアップする。
そういう場所がもっとあると良いですね。
スポーツが文化になると健康も手に入ります。
ワタシは畳敷き道場欲しいですね(笑)
12畳あれば練習できます。
にほんブログ村